長男の不登校から市民立小中一貫校を選択するまでの記録です。その途中で、シングルマザーになったり、自分でスクールを運営した期間もありました。教育移住、離婚、そして子どもたちの学校問題がひと段落するまでの4年の記録を書いていきます。
学校に行かなくなってから、玄関先で毎日のように担任の先生と立ち話と登校刺激。
そこから、息子が好きなパソコンの授業の日に、学校に行ってみることになりました。
学校に送ってきたと思ったら
久しぶりの登校、息子が行く気になったのならと、学校の近くまで見送ってきたその日の午後。
学校から電話がかかってきました。
「〇〇君が逃げ出してしまって!迎えにきていただけますか?」という電話。
とにかくもう手に負えないからすぐきてくださいとのこと。
今日からまた毎日通うようになるのかな、なんて一瞬でも思った自分が甘かった。やっぱり息子は学校で過ごすのは難しいんだと、今回ばかりはもう認めるしかない。
・・・そんな思いで学校に急いで向かったところで、当時のメモは途切れていました。(大事なところで!)
この先は、記憶を辿った断片的な話になります。
学校は牢屋みたい
学校で話を聞くと、以前面談で約束した、「教室を出る時は一言行き先を言ってから」ということができなかったらしい息子。
それでも先生たちは様子を見ていてくれたらしいのだけれど、息子の中で何かがあって、「お母さんに電話してほしい、帰りたい」と言ったことに対して、電話をしてもらえず、「嘘つきだ!!」と息子が叫んで手に負えなくなったとのこと。
そして、帰らせてくれないのならと、息子は荷物を持って下駄箱、そして校庭へと飛び出し逃げ回ったのだそう。
後から息子に聞くと、「お熱とか、体調が悪くないと帰れないし電話はできないよ」と言われ、「心が辛いのはどうでもいいんだ!」と思ったのだそう。
それから、教室を出て空き教室で過ごしている時に、校長先生が通りかかって声をかけてくれたので「どうして学校って6時間も授業があるの?」と聞いてみると、「そう決まっているからです」とだけ言われ、ぶっきらぼうにその場を立ち去っていってしまって悲しかったとも話していました。(息子からの聞き取りのみなので真実はわかりませんが)
大勢の子供たちがいて、安全に授業を進めなければいけない中で、息子の存在が明らかにそこに馴染めず困らせている。なんとも言えない気持ちになりました。
でもそれと同時に、「電話してほしいとお願いした時には電話をする」という面談での約束が守られなかったことに、心底落胆もしたし、熱や体調が悪くない限り帰らせられないという方針には賛成できませんでした。一方で、「一言伝えて教室を出る」ということができなかった息子にも、どこか腹が立つ感情もありました。
帰ってから息子と話すと、「学校は嘘つきだった」「一度行ったら簡単には帰れない、まるで牢屋みたいな場所」と息子が言いました。
ここまでの思いを持たせてしまったのだ。息子の、ショッキングでストレートな言葉。
これはもう、無理だ。もう限界だ。
ここまできてやっと私は、学校に通うことは一度完全にやめることと、毎日の電話や玄関先訪問、登校刺激もやめてもらうよう、学校に伝えたのでした。
そんなことがあって、この、久しぶりに学校に行った日が、息子にとって学校に通学した最後の日となりました。
不登校問題がはじまってから半年。
前年度の教頭先生に「あんなところは甘えだ」と言われた適応指導教室に、やっぱり行ってみるしかない。それから一度、児童精神科で相談してみよう。
そう思って、自分でできることを探して動き出すことにしたのでした。
⑩に続く