⑫幻のつらぬき楽園と別居への急展開/不登校から教育移住までの道のり

教育移住記録

長男の不登校から市民立小中一貫校を選択するまでの記録です。その途中で、シングルマザーになったり、自分でスクールを運営した期間もありました。教育移住、離婚、そして子どもたちの学校問題がひと段落するまでの4年の記録を書いていきます。

つくっちゃえば?をまにうけてさっそく学校をつくる

瀬戸ツクルスクールを知り、激しい衝撃を受け、さらには「地域にないなら自分で作ったら?」という言葉をまにうけた私。

「ツクルスクール分校」、みたいにしたらいいのかな、と思ったら、学校の名前は魂込めて自分で考えて!と一尾さん。

よし、考えてみよう。

その頃息子は適応指導教室にも行かなくなり、基本的には家で過ごすようになっていました。

サイクリングに出かけたり、リコーダーを吹いたり。日中になにかやれることをと、私も試行錯誤しながら向き合っていた日々。それでもなんとか、行ける場所を考えなきゃと、正直疲れ切っていました。

「もうさ、かっかが学校作っちゃおうかな」と言ってみると「え、いいね、作ってほしい」と息子。

「学校の名前なにがいいかなぁ」と言うと、息子が少し考えて「つらぬき楽園」がいい、と言いました。

楽しいことをつらぬいていい場所、だから学園の学は「楽」だよ、と。

ほっほ〜さすが。いいじゃん。いいいい。それで決まり!

当時息子に描いてもらったロゴマーク

不登校を抜けだす思考のチェンジ

その頃同じように適応指導教室に行ったり行かなかったりしていた友人親子に声をかけて、とにかくまずやり始めてみることにしたのでした。

もし自分だけでやっていたら、まずは場所を用意して、通ってくれる人を集めて、と外枠から準備したと思います。でも、今できることから小さく始めればいいんだよ、と教えてもらったことで、すぐに始めることができました。

地域のプレイパークに行ったり、子ども企画で映画に行ってみたり、市のクリーンセンター見学をしたり。参加者は息子と次男だけの時もあれば、その友人も一緒の時もありました。

教科学習だけが学びではない。こういう活動の中でも子どもたちの中に育まれているものはあって、そういう教育の形を積極的に選ぶんだ、という思考のチェンジ。

「本当は学校に行けるのが一番いい」という思考を変えていくことが、「不登校」という出口のないトンネルから抜け出す一歩なのかもしれないと当時感じました。

生まれた頃から住んでいた地域。子育て支援者として抱っこ紐の活動をしてきた場所。我が家の状況を知って、応援してくれる人もたくさんいました。

その場所でつらぬき楽園を続けていたら、いまどんな生活をおくっているのかな、と思うことがたまにあります。

結局その土地でつらぬき楽園の活動ができたのは数回。夏休みをはさんで、事態はいっきに別居へと急展開していきます。

事態は急展開

コロナ禍の中での遠距離電車出勤、息子の現状。つらぬき楽園をはじめて希望が見え始めていた一方で、元夫の状態は日に日に悪化していました。

私だけのことではないので細かくは書きませんが、話し合っての別居も試みましたが、まともな会話がいっさいできない状態。

身体的な暴力がなかったことが救いでしたが、恐怖に怯える日々を過ごしました。このままでは精神的にもたない。なにより子どもたちへの悪影響。この場から離れるしかない。

夜逃げに近い形で家を出る選択をするしかない状況に追い込まれ、私はその決行日を決め、水面化で動き出すのでした。

⑬につづく。

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