長男の不登校から市民立小中一貫校を選択するまでの記録です。その途中で、シングルマザーになったり、自分でスクールを運営した期間もありました。教育移住、離婚、そして子どもたちの学校問題がひと段落するまでの4年の記録を書いていきます。
ことのはじまりは一枚のテスト用紙から
2020年はじめ頃。長男小2の3学期、「なんだか最近学校がつらい」と息子が言った日がありました。
もともと集団に馴染める方ではなく、幼稚園も「あんまいきたくないな〜」と言いながら通った長男。それでもそれなりに楽しそうに卒園したので、またおんなじ感じかなと、ことの重大さに全く気づいていませんでした。
私は当時「学校は行かせるべき」と考えていたので、息子の話を聞きながらも、何度も言いました。
「まあさ、つらいことやつまらないことも生きてたらあるよ。かっかもいっぱいある。それをどうやり過ごすか、その中でもおもしろいと思えることを探したり、折り合いつけて生きる練習をする場所が学校なんじゃないかな」
同じ自分から出た言葉かな? と思うくらい今は考えが違います。
こんなこと言ってたなんて、振り返ってゾっとするし、息子にほんとごめんねって思う。
けど当時の私はそんな風に言いきかせ、なんとかやり過ごしながら、1日、また1日と過ごしていく、
送り出すのは大変だけど、行ってしまえば元気に帰ってくるし、大丈夫大丈夫、と思っていたのです。
そんなある日、息子が担任から渡された封筒を持ち帰ってきました。
授業中、テスト問題を破いたこと
新しいもう一枚のテストをなんとか最後までやったこと
数ヶ月前からイライラが多く友達とも衝突が増え、教室を出てクールダウンの時間をとっていること
家庭で何か聞いていることはないか
楽しい学校生活のために、不安を取り除けたら。
小さな便箋にみっちり文字が入ったお手紙と、破れたテストが入っていました。
なんだか、急に現実を知った気がしたあの時。
登校前に言い聞かせてなんとかやりすごすのは、そろそろ厳しいかなと思い始めていた頃で、「学校つらくてしょうがない」「今日も教室にいなかった」と息子がぽろぽろと言うようになっていて
一度担任の先生に連絡してみようかと思っていた矢先のことでした。
どうやら、私が見えていなかったことが起きている。
やり過ごしていたのは私だけで、息子は何にもやり過ごせていなかった。
学校で、からだいっぱいに何かを訴えていたんだ。
これをきっかけに、担任、学校カウンセラー、教頭など、面談を重ねるようになりました。
小さな町でも行き届かない支援
この時住んでいた町は、小さな市でありながら、とてもたくさん学校がある場所で、学校によって、専門分野の違った特別支援級(ことばの教室、きこえの教室、など)が配置されていました。
支援級がない学校もあれば、学校とは別に適応指導教室が設置されていたりする。民間の発達支援センターがあり、小学校入学前から療育を受けていれば、そことつながっていける。
とても充実しているように感じますが、横の連携はあまりなく、登校できなくなった息子に対し有益な情報を学校からもらうことはほとんどありませんでした。それどころか。
当時、ママ友に聞いてやっと知った「適応指導教室」の見学を申し出たところ、電話の先で教頭先生が声を潜めて言いました。
「甘えさせてはいけない。本人にその選択肢を伝えたら、楽な方を選ぶから、お母さんがこっそり見学に行くのはいいけど(それすらもあまり勧めないニュアンス)、あそこはあまりお勧めしない」
そんなことを言われたのでした。
適応指導教室は、”楽な方” らしい。息子は通常級に通常に通えていない状態だけど、適応指導教室もお勧めじゃないらしい。
・・・ん?じゃあそれってなんのために作られて、どういう子が行く場所なの??
意味わからん。と思いながら、学校からは紹介してもらえないならと、自分で直接連絡をとってみると、学校からの見学申請が必要と言われる。どうしたもんか。
そうこうしているうちに、特別支援級を担当する専門の先生が学校での息子の様子を見学にくることになりました。
そしてそのフィードバックをもらえる予定になっていた頃。
コロナでの休校措置で、学校側とのやりとりはパッタリと中断することになりました。
それまで毎日仕事でかけまわっていた私も、全てを一時休止して、息子たちとじっくり時間を過ごすことになったのでした。
②につづく